たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

無常記



 電車の中では、ほぼ90%の人がスマートフォンを見ている。
が、われは老人だから、ぼおう~~っと吊り広告や人を見ている。長い乗車、30分ぐらいかな、の場合は本を読むことにしている。読む本はもうだいぶ前から『方丈紀』に決めている。同じ本を何度も読み返してあきない。
 こういうところが、実変てこりんなおやじだなあ、と自分でも思うけれど、なに変てこりんはこればかりじゃない、いたるところ変てこりんなんだから、どうにもならないんである。もうこのまんま、変てこりんを友として行くしかない。



〇 逝く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
 この宇宙の無常なることを、ぴしゃり、一行で言い尽くした。と思う、すんごい! 川の流れは変わらぬように見えて、実は流れている水は絶えず入れ替わっているし、また古来から変わらぬように見える川と言えど、いつしかこれも変わる。
 あの太陽と言えども、いつしか寿命が尽きるという。ならば地球など宇宙の塵くずのようなもの、変わらぬもの、永遠なるものなど、どこをどう探し回ってもない、という。
 万物は流転す。



〇 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりためしなし。
 水に浮かぶ泡は出来たり消えたりして、一か所にとどまっているなどということはない。これはまるで人の命のようだ。あるいは生まれ、そして死ぬ。





〇 世の中にある人と栖(すみか)と、又かくの如し。
 我らと家とは同じようなものだ。



〇 昔ありし家はまれなり。或いは去年焼けて今年作れり。或いは大家滅びて小家となる
 家などというものも、幾世代続いているように見えて、実はそうではない。川でさえいつまで変わらぬか知れたものじゃないのに、家なんてものは焼けたり潰れたり有為転変限りなし。とても頼りにならぬ。



〇 住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしえ見し人は二三十人が内に、わずかに一人二人なり。
 住む人もこれまた流転して止まない。
 それにしても、昔は2,30人知った人がいたのに、今はたった2,3人だけ、とは、ほんとかなあ。平安の昔、そんなに人の移動が多かった? それとも速やかに亡くなってしまった?



〇 不知、生まれ死ぬる人、いずかたより来たりて、いずかたへか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
 人はどこから来てどこへ行くのか・・・これは今では分かっている。受精卵が育って母から生まれ、死すればゴミとなって土にかえる。
 死は誰でも免れぬ。生まれた時から死に向かって歩み始めるならば、生きていくというのは何なのか。ゴミとなるために生きている? ドエライ矛盾ではないのか? 
 とは言えしかし、ひとたび生まれた以上、なにがなんでも生きていかねばならぬ。ここに生きとし生けるものの、大いなる悲しみがあるのだろうか?


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 方丈紀は大いなる名文だと思う。さらさらと流れるように綴られているが、よくよく読めば大変なことが書いてある。電車の中で繰り返し読む所以なりや。

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