涼しさや湖の山雲湧いて

山の中の湖というのは、そこはかとない寂しさがるなあ、と思っている。
十和田湖然り、田沢湖もまたしかり。観光客も居ず、誰も居ず一人ぽつねんと水を眺めていると、言いようのない寂しさみたいなものが、そくそくと身に沁みてくるように思う。極めつけは、小海線を歩いていた時、偶然に松原湖に出会った時だった。
夕方近くになって、たったひとり湖岸に佇んでいると、誰一人いない静けさも、向こう岸の針葉樹の暗い森も、そして小海線の侘しい道をとぼとぼ歩いているこの旅も、侘しさが募って来て、なんだかとても寂しい思いがした。
しかし、よくよく考えてえてみると、山の湖を眺めたのはいつでも一人ぼっちの憐れな状態のときであり、自分が置かれた状況が、侘しさと寂しさを醸し出していたのかもしれない。なにしろ人の情動は主観の極みなんだろうから、あり得る話だ。
もしかすると人によっては、山の湖を眺めると気分が高揚し、楽しくてどうにもならない、なんてことだってあるに違いない。人それぞれ、各人かってにばらばらな感情を抱くのかもしれないのだけれど、そうなると詩の世界なんてものはどうなるのだろう。
それはともかくとして、湖を眺めると決まって浮かぶ疑問がある。それは、湖と沼の境目はいったいどのあたりなのだろうか? ということ。(池は人造のものだと考えられる)。湖と沼は大きさの違い、のような気がするけれど、その変換点がどの辺なのかわからない。
大きさの違いで名詞を使い分けているようなのだが、定義的にはっきりしない(もしかすると自分が知らないだけかも、だが)。これは「岩」と「石」についても言えるようであり、そのほかにもいろいろとありそうだ。どうもこれは由々しきことのように思われる。
これら判然としない事物を拾い集めてみると、なにやら日本の文化そのものに行き着くような気がしないでもない。物事をはっきりさせない、融通無碍のなんでもあり、そのときの気分と空気でコロッと変わる、そんな文化のひとつの例のような気がするが・・・
なにはともあれ、山奥の静かな湖で涼しくなりたい。
涼しさやほの三日月の羽黒山 (芭蕉)
.