この下にいのちうごめく冬の草

一面にやさぐれた枯れ草ばかりだ。
ところが、ぎっちょん! この下には密かに新たないのちが虎視眈々と出番を待っている。隙あらば萌え出るぞ、と狙っているのである。雑草と言われるあらゆる草が、春が来るのを待っている。油断できない。
ところが場所によっては、緑のままの草が平気の平左で日差しを受けていることがある。家の隙間のムスカリは、まだ青々と緑だ。冬は草が枯れる、とばかり思っていたが、どうもそうとばかりは言えないようだ。いろいろあるんだなあ。
ひょっとすると、この見えている草も枯れ果ててなどいないのかもしれない。一見枯れ死んだように見せかけて、実はひっそり隠れて、地下の方で次のいのちをこっそりと育んでいるやも知れぬ。まったくうっかりできない。
そう考えると動物だって、その個体は果てるかもしれないが、たいてい次のいのちを、まったく似たよういのちを生み育てている。なあ~んだ、草も動物もみな同じじゃないか。生きとし生けるもの皆同じだ。ちょっと安心したナ。
それにしても、いったい”いのち”って何だろう。そうして、誰がこのような巧みな”いのち”の連鎖を組み立てのだろうか。さらに、その根本のところ謎が、いまだ解き明かされていないのは何故なんだろうか。謎だらけなんである。
どのようにして生命が発生したのか、そしてそれが、連綿と引き続いてきた仕組みはどのようにしてできあがったのか。これを解き明かす人がもしいたならば、ノーベル賞を100個だって贈っても構わない。生物界のアインシュタインよ、いでよ。
春が待ち遠しい日のたわ言。
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