たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

ああ、木の芽どき



 あれ、なんか力が出ないなあ。
 力が出ないばかりか、なんもやる気がせんゾ。
 なんだろう、この憂鬱な気分は、一体どうしたのだろう。



 雨もよいで重く垂れこめた日はもちろん、青空が広がってお日様燦々の日だというのに、どよんと沈んだ気分は、その青空さえもその青さがなぜかもの悲しい。空も緑も風も素晴らしい春だというのに、なんだか寂しいように感じられる。何もやる気が起きないので、ごろちゃらとしつつ、本ばかり読んでいいる。


 「極夜行」という本を読んだ。北極圏の太陽が昇らない季節に、グリーンランドの小さな村から北に向かって旅する日本人のドキュメンタリー。太陽がないから一日中暗く、まるで闇の中を行くごとし、たまに月が出ると、その明るさに生きていることを実感するが、闇は続き、そして次第に深い底知れぬ鬱に嵌まり込んでいくという。


 それとはまるで違う。暖かい日が照り輝き、ものみな生き生きと成長し、爽やかな風が吹くというこの季節、どうして心がこうも鬱屈するのだろう。理屈に合わないじゃないか! と思う。どうしたんだろう!? 脳みそのどこかが不貞腐れているのか?



 
 齢をとったので、老人の不定愁訴なんだろうか。いやいや、これはその、認めたくないゾ。もしこれが原因ならば、季節を問わず鬱々とするものじゃないだろうか? 春のこの時期に、ものみなもの悲しく感じられるのは、恐らく別なものがあるのではなかろか? 


 そして「春鬱」という言葉を初めて知った。「春愁」とも「木の芽どき」ともいうらしい。ちょうど今頃の季節、わけもなく鬱の気分になることを言う、とある。うむ、わがもの悲しく沈んだ気分は、どうもこれじゃないか? そうだ、この季節の一過性の鬱状態に違いない。


 と、かなり強引に、これだと思うことにした。なにしろ人間(いや、自分)は、気分次第なんである。そのときの気分で、言葉が違う、行動が違う。冷静に事物を見極めて、その上で話したり活動する、などはしていない。そのときの気分に支配されているだ。




 だから、おもしろくもない「老人鬱」を却下し、一過性の「春鬱」を採用する。
 そしてこの季節が過ぎたら、もの悲しい気分をどこかにうっちゃって、
 晴れ晴れと屈託なく毎日を過ごそうと思う。

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