北のかぜ麦踏む老爺の頬かぶり

麦を踏む姿などトンと見かけなくなった。
子供のころは冬前の北風が吹く中で、その姿をよく目にしたように思う。「冷たき風吹きすさび麦踏む爺さんの頬被りいとおもうしろうて」という印象が浮かんでくるが、あれは我が脳みそが得手勝手に作り出した幻想だったのだろうか。
幻想だとすると、なんのために脳みそはそんな印象を、自身の薄暗がりの中に保持したのか、それが解せない。思うにたった1回の目撃だったのに、爺様の頬被りがひょっとこを連想させ、そのおかしさが強く印象付けられたためかと思う。
どうも我が脳みそは、この私に相談もしないで勝手にいろんなものを作りだして記憶にため込み、私はそれに振り回されて、大いに迷惑である。例えばつい最近経験したことでも、その事実を勝手に繋ぎ変え再構成して、ありもしない印象を造り出し、それを薄暗がりに仕舞ってしまう。
そうして、その経験を共にした人と話をすると、まるで話が合わない。相手は経験した事実を話しているはずだが、こちらは脳みそが勝手に作り出した印象を話しているから、話が合わなくて当然である。歳を食って増々この傾向が強くなったようである。
ところで、「我が脳みそ」と、そして「この私」と、二つは別々のものであろうか。どうもつらつら思ってみれば、二つは別々だ、と言う感じがする。それは上記のように、我が脳みそが私に反旗を翻すのを見ても、そう思う。
しかし脳みそは一つだけだし、肝心の「この私」と言うのも、もしかして脳みそが作り出すものなのではないのか。そうだとするとどうなるのか。脳みそが「この私」を作り出して、お互いに一つの脳みその中で争っている、と言うことなのか?
ぶっ壊れ脳みそが、なんだか怖い。
.