草青む畑中道の古地蔵

ようやく鬼の如き寒さが去りつつある。
こんな長閑な景色も、もうすぐあちこちで見られるだろうと思う。田舎道をふらふら歩くのが好きだからよく見る光景であるが、それにしても方々で今でも石仏は大切にされている。これを信仰する人はもういないのだろうが、まあ大事にされている。
古びて、頭が取れればセメントでくっ付け、腕がもげればやっぱりセメントで応急措置をする。体中が雨に侵され溶けそうになっているものだってある。そういうのを見つけると、思わず知らず立ち止まって、ほのぼのと佇んでしまう。
この石仏を誰が補修するのか知らねいけれど、補修箇所がどうも素人っぽい、わざわざ業者をよんで直したりしてない。まあ近所の人だろう。そういうのを見て「なんで、こんな古いものに手をかけるのだろう」と、ときおり考える。
しかし考えてみれば、古いから、壊れたからと言って、じゃあどうする。つい近い時代まで、お婆ぁが膝まづいて熱心に祈っていたのを目にしているだ。人の祈りの対象であったものを、信長のようにぶっ壊して石垣にしてしまう、と言うのは忍び難し、ではないか。
ともあれ、日本人には固有の宗教はない、という。これを逆に言えば、なんでも信仰の対象になりえる、と言うことではないか。ぶっかけ地蔵だろうと、溶けかかった石碑石仏だろうと、はては岩だろうと大木だろうと、信仰の対象になりえる。
ひょっとして、そういう心情が、壊れかけた石仏を直し続け、補修し続けていくのではないか、と思う。と言うことは、まだ、辛うじて、やっとこさ、信仰のこころが残っている、と言うことか。この先、野辺の石仏など全く無くなってしまうのかどうか!?
春霞棚引く先の石仏
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