多摩たま日誌

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「一句一ブログはボケ抑え」・・・できるかな?

たおやかに柳芽吹くも名残雪

多摩たま



 江戸時代、新河岸川は物資を運ぶ重要な「道」だったという。


 この川は川越近辺に源を発し、荒川の西側をほぼ並行して流れ下り、赤羽の東で隅田川に合流している。そういう川筋なので、江戸の、人や物資、文化までも内陸の川越周辺に運び、逆に農産物などを江戸に持ち込んで、その運搬業はたいそう盛んだったらしい。

 

 ということで、みんなで川越近辺の川岸を歩いた。鬼も怖れるほどの寒い日で、気温はせいぜい6,7度、ことによったら午後雪になるという予報。新河岸駅に集合した面々はしかし、だれも寒さに立腹する人はいない。やんぬるかな、我慢しよう。



 最初に「新河岸跡」へ行った。「河岸」とは船着き場のこと。岸辺に柳が一本ぬっと突っ立っていて、たおやかに垂れた枝が薄い緑に霞んでいる。根元に石碑があり、ここはかっての河岸の跡だよ、と書いてあるのだろう。土手に石段の河岸が復原してあった。


 この川筋にはその時代、河岸がいくつもつくられ、そこでは回漕問屋が軒を連ねて、大いに賑わったという。近くに回漕問屋「伊勢安」の建物が残っている。目に沁みるような白壁の土蔵を従えた、豪壮な伝統的建築。中は見られないが敷地はうんと広そうだ。



 緑の草が芽吹いた土手道の上を歩く。向こうの土手まで50mほど。土手下に平らに泥が堆積して、その真ん中を黒い水がゆるやかに流れていた。どんぶらこの流れではない。船を引っ張るには好都合だったと思われ、やはり「運搬路」としての条件が備わっている。


 寒しといえど、やっぱり春、処々に梅が咲き、河津桜が満開の枝を広げている。土手の青草の中に、仏の座の深紅がちらちらし、烏の豌豆が芽を伸ばしていた。流れの岸にアオサギが石像の如く凝り固まって、ぴくりとも動かない。



 下流の「福岡河岸」まで歩いた。ここも川べりに河岸が復原してある。緩やかな段丘の上に回漕問屋「福田屋」(福岡河岸記念館)があり、内部を公開していたので、ボランテアの案内で見学。明治初年の「母屋」、明治333年建築の三階建て「離れ」の中を見る。


 感想を言えば、母屋は座敷は別だが、他の生活空間は恐ろしいほど狭く、天井が低い。女中部屋などは、危うき梯子段をよじ登り、屋根裏を這いずって屋根裏部屋に潜り込まねばならない。表向きは大層立派だが、裏側は貧相である。


 打って変わって、客人接待用の離れはこれでもか、というぐらい贅を尽くし意匠を凝らせてある。障子の桟の気の遠くなるような細かい木組み、腰板に施された近江百景の浮彫、全部違うデザインの欄間の透かし彫り、紫檀黒檀の床柱・・・



 福田屋を出て昼飯のスーパー、フードコートに向かうとき、とうとう雪がちらついた。暖かい昼飯を食って、気温は零度だというのに、急に温かくなった。わが体が、これほど現金な奴とは思わなかった。



「舟運」はこれほど大規模だったと認識を新たに。




短い動画  (BGM、キャプション)

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