玄関を大輪あさがお塞ぎけり
朝顔はどこにでもありふれた花、という印象がある。
ではあるけれど、花が案外大きい。かてて加えて、朝に蕾から開花し夕方には萎んでしまうという、分かりやすさがある。これがために小学児童の格好の教材となったものと見える。だからたぶん、ガキの頃この花を育てさせられたはずである。
が、このことはあまり覚えていない。おそらく種を学校から持ち帰って、そこら辺のバケツかなにかに土を入れて埋めたことだろう。しかし小学生の悪ガキは、朝顔の生育観察なんて構っちゃあいられない。種を埋めたっきりで、毎日外へ飛び出し、遊び惚けていたに決まっている。だからその生育状態なんてすっかり記憶の外だ。
こういう按排だから、種が芽を出しても放っぽらかし、茎が伸びても水やりもせず、結果、いつ覗いてもひょろひょろの朝顔となり果て、その印象しか残らなかった。そういう植物だと信じて疑わなかったのだ。
ところがぎっちょん、長じて田舎道をおろおろ歩いていた時に、道端の家の玄関が、朝顔の鬼のような繁茂で塞がれているのを見てびっくら仰天、あっと驚く為五郎だった。この花は手入れさえすれば、アマゾンジャングルの如く茂り、恐ろしいほどの花も付けるのだなあ、と教えられた。小学生の自分を連れてきて、大いに叱り飛ばさねばならぬ。
この花ではまた、”朝顔に釣瓶取られてもらい水”なる言葉もガキの頃に教えられた。そのとき思ったのは、そんな朝顔のツルなんぞひっち切ってしまえばいい。ということだった。たかがツル一つのために水をもらいに行くなんて、なんてことだ! と思った。
この女性(と思う)は、朝、井戸端に来たのだから、朝餉の支度でみっちりと忙しいはずだ。それをさておいて水をもらいに行くなぞ、言語道断! と思ったのだが、よく考えてみると女性のやさしさ、こころ映えの細やかさが、この一言に現れているように思える。
女性の心配りの細やかさ優しさは、近年とみに痛感している。今までと違ってなんだか妙にやさしい。その優しさは、どうも幼児をあやすようでもあり、聞きわけのない子を諭すようでもあり、なんだろうか、これは!?
朝顔の花がとんだところにすっ飛んだ。
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