秋の日のがくりと落ちて駅遠く

秋の宵はもの寂しい。
と、古来から決まっているようだ。秋は冬に入る手前の季節、緑が枯れてゆく時期、人生でいえば暮れてゆくタソガレの老人期、うら寂しいのは当然であるように思う。しかしどっこい、タソガレていない若い人だっているのだから、そういう人は淋しくもなんともないだろうと思う。老いも若いも一緒くたにしてはいかん。
秋は淋しいという感慨は、もしかしてひょっとすると、季節の移り変わりを無理無体に己が人生と重ね合わせて、古来よりモノに書かれ、歌に詠まれてきた結果、みっしりと刷り込まれてしまったものなのではなかろうかと、ふと思うことがある。
現に、「秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」
・・・枕草子
という按排で、「秋は夕暮れがいいやね! カラスがねぐらに急ぐ様などとてもこころに沁みるものだ・・・」と言っているだけで、ちっとも寂しがってなどいないようだ。日本人ならば、秋は淋しいもの、と感じなければいかん、と思っているだけではないのだろうか。
とは言っても、なにを隠そう、こういう情緒が骨の髄までがっちりと刷り込まれているらしく、やっぱり秋の宵はそくそくと寂しく感じる。午後2時を過ぎると、がっくしと陽が落ち込んで足早に夕暮れが迫ってきて、ヒジョーにサビシー。
特に、まだ道半ばで駅までの距離がみっしりと残っている場合など、あせあせの焦りとともに、寂しさお化けが肩にのしかかって、この世に一人取り残されたような気分になってしまう。けれどよく考えるとこれは、自分で自分をそのようなこころもちの中に、好き好んで追い込んでいるだけだろう。冷静に見れば、寂しさ負んぶお化けなどどこにもいない。
秋はさみしくない、いい季節である。
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