多摩たま日誌

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「一句一ブログはボケ抑え」・・・できるかな?

古寺に陽の傾いて牡丹かな

多摩たま



 夕方の空に浮かびあがる牡丹はなぜかきれいだ。


 城址公園を散歩していてそんな経験をした。もう夕方近かったが、細い道をぶらぶら公園の中に入っていって、昔の屋敷跡を見たり、芭蕉の句碑の前で佇んだり、小学校のグランドを眺めたりしながら奥へ歩いた。


 薄暗くなり始めた森の陰に、大きな構えのお寺があったので入ってみると、その庭のひと隅に牡丹が数株、折からの夕空に浮かび上がるように咲いていた。とてもきれいに見えて、思わず立ち止まった。昼の陽ざしで見るよりも美しいと感じた。



 ちょうど牡丹の盛りの時期だったかもしれないが、旅の途中の夕ぐれの、こころ寂しい思いにぴたりと嵌まったしまったようだ。暮れてゆく夕空に急かされる気持ちが募って、この時の牡丹がことのほか美しく感じたのかもしれない。


 旅の途中の夕暮れは、どこに居ても、なにがしかこころ細い気持ちになる。一刻も早く我が栖で安心したい気持ちが沸き上がって来る。これはあながち、精神が軟弱なためばかりではなく、遠いとおい古代の、夜に対する不安が蘇ってくるためかもしれない。



 牡丹の花は一見すると蝋細工のように見える。迂闊に触るとぱりんと割れてしまうように見える。だから、なんだか手を伸ばすのがためらわれる。しかしよくよく見れば、花びらは紙のようにとても薄いけれど柔軟で、決して割れてしまうようなことはない。


 植物はか弱そうに見えるが、どうしてどうして、花にしろ葉にしろ恐ろしく強靭でしたたかだ。そうでなくては、むろんこの世界に生き残っていけない。そのしたたかさが身についていないから、世の荒波にくちゃくちゃになってしまった。


 植物に見習えこの生を。




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花よりも野蒜の根こそ嬉しかれ

多摩たま



 野蒜に花が咲くとは知らなかった。


 野っぱらを歩くのが趣味だけれど、ついぞこの花に注意を向けたことがない。野蒜と言えば、根っこを掘り出して(それも小さなちいさな球根だ)、それに味噌を塗ってから、あんぐりと口にしてビールを呑むことしか頭になかった。


 歩いていて、運よく根を掘出す道具を持ち合わせることは、まずない。たまたま傍に棒きれなどがあればいいけれど。それにしても、この根っこは、ほとんど豆粒ほどの大きさしかなく、親指ほどのものを採るには、よほど太い葉っぱを見つける必要がある。




 そういうことで、タダの野蒜でビールを呑もうとするのは、これでなかなか大変なのだ。川原の土手などに座り込んで、熱心に掘出し作業にいそしむ。人が見てれば、バカだと思われる。しかしこっちは、バカでも何でも構ったことではないだ。


 たまたま運よく、親指ほどのものが2,3粒採取できればもう満足。小さな粒も一緒にそのひと掴みを、いそいそとビニール袋に葉っぱごと押し込んで、さも大事そうにリュックの中に仕舞い込み、にんまりとする。さあ、これで今晩のビールが死ぬほど待望される。




 ところが帰宅してからがまた大変なのだった。山の神様は屁ほども関心がなく、自らなんとかしなくてはならない。まずそのひと掴みを水でよくよく洗って汚れを取り、しかる後に葉っぱを2cmほどに刻み、根っこに味噌を添える。


 そして根っこを、あんぐりすれば、まずピリピリと辛い。その後からニラのような臭いが鼻に抜ける。そこへ待望、ビールをぐびぐび、ぷっはあ~~、野趣満点である。たまにはこういう野趣を味わなければならぬ、と独りよがりに思う。


 野良暮らしの記憶がよみがえる。



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海を見る良寛像に初夏の風

多摩たま



 良寛の目先の浜に初夏の海が広がっている。


 出雲崎町に入って国道を左に折れ、狭い道を海に向かってしばらく走ると、左手奥に続く細道が分岐している。恐るおそる入っていくと良寛記念館があった。入ってみると簡素な記念館の前に、若葉に埋もれるようにして茅葺の庵が復原されていた。


 ここは崖っぷちなので、記念館のベランダから見下ろすと、鬱蒼とした樹間から広々と青い海が見渡せた。海はこのうえなく凪いでいて、縹緲と広がり、春風の中にゆったりとたゆたっている。春の日本海は穏やかだ。



 

 車をここに置いて崖の階段道を降りていった。眼下に狭い海岸段丘が見えてきて、そこにびっしりと民家が並んでいる。ここが良寛の誕生の地らしい。家並みの中の狭い道をぶらぶら歩いて、良寛が生を受けたという屋敷跡に出た。


 そこに形のいい御堂が海に向かって建っている。前に廻ってみたら、良寛の座像が石の上に端座して海を見ていた。良寛の視線の先に、佐渡が薄青く霞んで横たわっている。だいぶ長い間、良寛と一緒に茫々と霞む海を眺めて過ごした。


 ときどき後ろを振り返って、その長い顔を眺め、良寛はいったい何を考えているんだろうかと思った。子供たちと無心に遊んだ春の日々を、あるいは乞食坊主の生涯を、思い起こし満足しているのだろうか。むろん何も答えてはくれない。




 その後で、海岸ぷちの道路を辿って歩いてみたら、道の駅があった。「天領の里」と銘打って、博物館のような建物があり、食事処やお土産屋さんが並んでいる。どこにも入ってみる気が起きず、ベンチでただ、ぼうお~~と過ごした。


 先の方に「夕凪の橋」というのが長く海に突き出しているのが見える。夕日がきれいなのかもしれないが、夕日が無ければただの無用の、姿通り長物。午前の明るい陽を受けて、広い駐車場と細長い砂浜が、ただただ広がっているばかりだった。


 現代は良寛ひとり程も惹きつけず。



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