居場所 考
よく、居場所があるとか無いとか、主にSNSで目にする。
この場合の居場所とは、そはそも、何であるか。
・・・その場所では、なんとなくゆったりできて圧迫感がなく、そして集まった人とゆる~くつながっている感じがあり、好きな時に行って、好きな時に帰る、その場所に行ってもいいし又行かなくてもいい・・・どうやらこのような場所を言うらしい。
しかしこういう場所は、今ある普通の組織やグループにはないように思う。普通の組織やグループは、少なくともある目的のもと、その趣旨に賛同する人々が寄り集まっている。
だから、ただ何となく集まって、なんでもいいから話したり、あるいは話さなかったり、それがいい、という人たちが居ることのできるいわゆる「居場所」とは違うだろう。
人は誰でも「家庭」という居場所がある、あるいはあったはずだ。しかし何らかの理由で自分の家庭に、居にくい、そこにいると圧迫感がある、家族という存在が煩わしい、などの感情を持ってしまい、自分がいても圧迫感を感じない場所をほかに求める、ということなのだろうと思う。
家庭にも「居場所」がない、普通の今ある組織やグループにも「居場所」がない、となると、ほんとに「居場所」がどこにもないことになる。そして、無いなら作るか、という方に向かうのは必然のような気がする。
そこで、pha著『何処でもいいから どこかに 行きたい』(幻冬舎文庫)を読んでいたら、著者は”シェアハウス”という形態をいわゆる「居場所」として設定し、著者をはじめ、居場所のない他の人たちが集まって住む、という形を作ったという。そしてそれを、一軒、また一軒と増やしていったという。
この形態が居場所のない人たちの、ほんとに「居場所」となるのかどうか、門外漢の自分には全く分からないが、シェアハウスというのはそういう観点から増えていくのかもしれない。そうして将来、居場所のない人たちの「居場所」になれば、という気がする。
翻って自分のことを考えてみると(ジーさんを若者と引き比べるのはナンセンスだが)、居場所はまぎれもなく「家庭」にある。あることはあるのだけれど、ここには相当な圧迫があり、それは妻と称する鬼からの圧迫だが、その昔こちらが圧迫していた朧な記憶があるので、ひたすら我慢せねば、と思っている。
また、鬼からすれば、わたしという家族の存在がひとしおならず煩わしく、出来ればある日煙のように、どこかへ消えてしまってくれたらどれほどこの世が素晴らしいものか、と思っている節がある。もちろん、鬼の方は自分の居場所がない、などとは露、夢ほども考えていないらしいのである。
ヒトはどこかに居場所がなければ、つらいに決まっている。