同じ阿呆なら
昔から我が頭は、少~し足りないと思っていたが、
齢とって、さらにどんどん足りなくなってきたようだ。
齢とってきてから、論理的思考がほとんどできなくなってきた(じゃ、齢とる前は出来たのかよ、と言わないでほしい:泣)。たまに本など読んでも、物理や数学系は一ったれも理解できない。仕方がないから、理系と文系のはざまにあるような本を読む。
最近は脳科学に関する本がおもしろいと思う。(脳科学はブームが終わったらしいが、元々足りない方だから、人より遅れる)。それによれば、脳みそは意識するより瞬間速く動き出すのだそうだ。脳みそが動き出した後に、ようやく意識に登るらしい。
そう言えば、”悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ”ということをどこかで聞いたような気がする。これが、脳の方が先に動く、ということなのかなあ。だとすると、意識できない、つまり無意識の脳活動が、その後改めて意識に”効いて”来る、ということか。
脳が先に動く、というのは、脳があらかじめ命じて、悲しい顔とか涙とかを準備する、ということなのだろうか。そしてそれが実行されてから、初めて「悲しい」という意識が発生する、ということか?
そう言えば、本には「いつも笑顔を作っていると楽しくなる」ということも書いてあったように思う。無理にでも、笑顔を作っていると、脳があらかじめ楽しい気持ちを準備するのだろうか。ほんとかなあ、と思わないでもないが。
しかし確かに、笑顔を作っているのに、いきなり悲しくなることはなさそうな気がする。また笑顔を見て、いきなり怒涛のように怒り出す人もいないかもしれない。赤ちゃんのニコニコ顔を見て、つられてこっちもニコニコするし。
よく分らないけれど、もしこういうことがほんとなら、無意識の脳の活動を意識的に(なんのこっちゃ! )コントロールできるかもしれない。それはつまり、意識して毎日笑顔を作る、ということ。これなら気の持ちようでできそうである。
喜び、楽しみ、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などが、わが身を支配するものだとすると、このうち「喜び、楽しみ」だけを「笑顔を作って」、「気分を持ち上げて」演出できないか。つまり、いやな気分をこの二つで締め出すことができないだろうか。
この二つの状態を他人が見れば、なんとも楽観的な阿呆に見えるだろうなあ。でも阿呆のわが身からすれば、楽観的阿呆と悲観的阿呆、同じ阿保なら、踊らにゃ損、じゃなかった楽観的阿呆の方がましのような気がする。それで喜と楽が手に入れば安いもんだ。