たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

夜長の閑話



 自分が好きなこと、というのはいったい何だろうか・・・この歳になるまではっきり分からずに便々として日を暮らしてきたように思う(随分バカな話だと自分でも思うけれど、実際のことだから仕方がない)。
 近頃になって、それは「旅ないし旅行」(観光ではないような気がする)ではないのか、と気付いてきた。しかしながら、年金暮らしの貧乏人の、しかも面倒くさがり屋であってみれば、簡単にそれを実行に移すことはままならない。


そこで、その代替行為となってしまうのだけれど、手っ取り早く読書、それも紀行文に大いに心惹かれる。・・・最近はそれ以外の本を読まなくなった。それで好きな紀行文をいくつか記しておこうと思う。



・「阿房列車」(内田百閒)
 「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」という文章を最初に読んで、びっくらこき、驚天動地の思いにかられた。用事がなくて汽車に乗る、というのがまず考えられなかったし、大阪までという距離にも驚いた。
 以来、なににも増す愛読書になってしまった。特になにかでこころ鬱屈したとき、この本を引っ張り出して読む。そういう心情の時なぜこの本を読むのか、いまだにそれが分からないし、文章のどこに惹かれるのかもよく分からない。
 そのような分析はできないのだけれども、ともかく読んでいると、固まりかけた気持ちがゆるゆるとろとろと蕩けだしていくように感じる。そうしていつの間にか眠ってしまい、その寝ごごちも大変いいように思う。
 だから同じ本を何度もなんども読む。よそ様はそういうことを、バッカじゃねえか、というに違いない。まごうかたなきバカなのだろうが、そのバカによって誰かが、どこかが迷惑するわけではない。全部自分一人だけのことだから自己満足でいいや。


・宮脇俊三の本いろいろ
 これもまた鉄道に乗って旅する人であり、その旅の紀行文。この二人を取り上げると、さてはお前、鉄ちゃんか? となりそうだが、あんな退屈なものに延々何時間もつき合いきれないと思うから、鉄道好きというわけでもないだろう。
 それなのにこの本もまた、なぜか知らないけれどこころ和ませる。文章に車窓の風景描写などは、ほんのちょっぴりしか出てこない。そのほんのちょっぴりが、ぴたりと決まっているように思われ、そこに引き付けられるのじゃないのだろうかと思う。
 著者はいつでも茫洋として電車の座席に座っているように書かれているが、性格そのものは決してそのようなものではないにしても、文章が巧みに考え抜かれているので、読む方が気づかないままに、茫洋とゆったりした気分になってしまうような気がする。


・「オーパ・オーパ」「もっと遠く広くもっと」(開高 健)
 南米大陸縦断(アラスカ~フエゴ島)及びアマゾンの、釣り紀行。これは読んでいてこころが和む、という案配にはいかないけれど、そのスケールの壮大かつ無辺なことにおいて比類ない。男だったらこれぐらいなことをやってみな、という気にさせられる。
 しかしこんなことが普通の男にできるわけはない。できるわけがないから、憧れる、夢に見る。予想を軽く覆す広大なスケールの旅に驚き、豊富な写真にまだ見ぬ辺境への思いが募り、世界を知ることとなる。
 文章を読めば、ひたすらに著者の人間と世界に対する胆汁のような苦みを感じるものの、その苦みを抑え付けたうえでのユーモアも感じることができる、と思う。釣りもやらないからその面白さは分からないけれど、釣りを抜かしても、世界の旅の面白さは十二分に伝わる。



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