たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

巣籠読書




 内田百閒のある種の本を読むと、どうしてこう心穏やかになるんだろう。
 コロナのせいで市の図書館は閉館、おかげで読む本がなくなった。そこで古い古い、カビが生えたような、内田百閒を引っ張り出す羽目になって、しかし何度読み返してみても面白いし、読後なんとなくゆったりした気持ちになるのが不思議だ。


 今回は「百鬼園随筆」。その中の掌編には、思わずニヤリ、ウフフとさせられ、よそから見たら、ナンだあいつは! というような顔で読んでいる。ま、よそから見るやつは誰もいないから、そんなことは知ったこっちゃないけれど。


 それから「阿房列車」シリーズも抜群に面白い。・・・用事がなければどこへも行ってはいけないというわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。・・・で始まるこのシリーズは、ほんとにただ汽車に乗るか、酒を飲むだけなのだ。
 鉄道になんら趣味はないのだけれど、それでも読んでしまう。それも繰り返し繰り返し、雨の日のこころ鬱陶しい日など、読んでいるとなんだかもやもやの霧が晴れてくるような気がする。車窓からの風景のちょっとした描写など、しみじみとする。
 また、ヒマラヤ山系氏との惚けたような、かみ合わないような、浮世離れをしたような会話が又面白い。この二人の会話が、このシリーズではなんとも異彩を放っているように思える。いくら何でも、沿線の目入る描写だけでは、本一冊は苦しいだろうと思う。



 ところが、百閒の流れを汲むと思われる宮脇俊三氏は、主に沿線描写と、あとはその土地の歴史が織り交ざって、それで読み応え十分。この人も「なんにも用事はないけれど」で、ただただ延々列車に乗っているだけなのだ。
 無論のこと、百閒氏とは表現も違い、文章の味も違うのだが、こちらもなんとなく漂うユーモアがなんとも楽しい。「旅の日記を書いているんじゃない、紀行を書いているのだ」とは、氏の言であるが、ただただ見たものを書き流しているのではないことはよくわかる。



 もう一人、阿川弘之氏を同列として挙げておきたい。氏も又無類の鉄道好きというが、その数少ない列車の旅を綴った文章は、同乗者の個性を余すところなく抉り出し、それをユーモアに包んで、読んでいてこれもニヤニヤさせられる。



 ともあれ、コロナがどうにかならないと、どうにもならない。
 ただただ我慢を強いて、なんだか宣言延長延長ばかりではどもならん。
 エライ人たち、よろしゅう頼んまっせ。ほんとに!



×

非ログインユーザーとして返信する