たまたま日記

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ネット社会はどこへ?


『「サル化」する人間社会』山極寿一(集英社インターナショナル)
を読んで思ったこと。



 この本の著者は、ゴリラの研究を通じて人間社会を解明する人だが、難しいことを、ごく易しい言葉を使って、平明に綴り、それでいて内容は深く、かつ受け売りではない独自の見解を持っている。
 易しく平明な文章はとても読みやすく、一つ一つの項目が胸にストンと落ちて理解できたように思う。一流の学者はこういう点でもやはりすごい。
 この本の中の、最終章「サル化する人間社会」については、自分でも日ごろから関心があったので、それについてまとめておこうと思う。





○現在のSNSなどの盛況は、老いも若きもだれもが取り付かれたように利用しているように見受けられ、もう夢中で、といった感じがする。
 この現象は、人々の考え方、社会への対応の仕方を変えてしまい、世の中を急激に大きく変えてしまうのではないか。そして20年、30年後の社会はどうなっているのだろう? と強い関心を持っていた。(自分はせいぜい必要に迫られてメールを使う程度で、ラインもツイッターもフェイスブックもお呼びでないから偏見があるのかもしれないが)。



●著者は長い間の研究から、サルと霊長類の社会を下記のように分類している。
「サル」
 家族を持たない集団社会で暮らしている。社会の規範は、力が強いものを頂点とする完全なヒエラルキーである。強者と弱者の格差は絶対的なものであり、それで集団の規律が保たれている。
「ゴリラ」
 血縁を中心とする家族的な数頭の群れを単位として暮らす。群れの規範は、ボス猿である一頭のシルバーバックの支配で保つ。数家族が集まった集団は形成しない。
「チンパンジー」
 家族を持たない数十頭の群れの社会を形成する。複数のオスと複数のメスが集団の中でつかず離れずで、オスとメスは乱婚状態で暮らす。子育ては群れの中で共同で行う。
「人類」
 家族が基本単位となって、その家族が幾つか集まってコミュニティを形成する。複数の家族が集まって共同体をつくるのはほかの霊長類にはない特徴。家族は身内を一番に考えるえこひいき集団だが、共同体は平等、互酬姓を基本とする。
 共同で子育てをする必要性があり、食を共にすることで生まれた分かち合いの精神によって、家族と共同体という二つの集団の両立を成功させた。


●さて、では著者はこれからのSNS社会をどう見ているだろう。
(著書から抜粋して引用)

「通信革命と序列社会」

 インターネットや携帯電話など通信革命が人間社会にもたらした変化は非常に大きなものです。近年ではSNSの出現で人間関係の作られ方やあり方にも変化が訪れました。

 インターネットを通して出会い、実際に対面することなく友達になる、ということも今では普通のことになっているようです。

(これにより)人間はどんどん自由になるでしょうが、同時にますます孤独になるでしょう。インターネットを通したつながりが、かりそめの安心感を与えてくれることもあるかもしれません。ですが、それは自分を無条件に守ってくれる家族的なつながりとは全く種類の異なるものです。

 そしてインターネットなどをきっかけにゆるやかにつながることを目的とする集団は、サル的な序列社会となじみやすいものだと思います。家族に特有の「家族を守るための決定権」が、そういった集団には備わっていない。ということは何か問題が生じたときに、集団が分裂し、集団より大きな社会が備えている上下関係の論理に組み込まれやすいのです。

 平等よりも勝ち負けが優先するサル型の階層社会では、弱いものが常に身を引いて強いものを優先させるので、喧嘩が起きにくい、これは支配するものにとってみれば非常に効率がいいですし、経済的です。

 家族が解体した集団本位の社会では、この傾向が一層進んでいくはずです。私にはこの状況を決して楽観視は出来ません。人間にはサルのような序列社会はふさわしくないと思えるからです。




○とても示唆に富んだ内容だと思いました。
 昔に比べればとんでもなく便利になった世の中なのに、若い人が、生きにくい世の中だ、とこぼすのは、若い瑞々しい感性が、このことを敏感に感じているからなのかなあ、と思ったりします。
 それとも、ノープロブレム、未来になんも問題ないよ、というのが正しい感じ方なのでしょうか? 自分にはわかりませんが、何かが大きく変わる予感は持っています。

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