たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

片雲の夢を追いつつ五月晴れ


 奇妙な憧れがある。
 あてどなくさまよって流れていくこと。




 さまようことに憧れるのはどうしてなのか、車中泊が今ブームらしいけれど、これもさすらいの夢を追いかけているんじゃないかと思われる。昔の人もこう言った。”古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず”


 しかしあてどなくさ迷ううちに、危険な目にあい、苦しい思いをするのはどうも好かない。本質は大いなる軟弱ものであり、決断も勇気も、かけらほどもないことを自覚している。けれど片雲の風には吹かれてみたい。どうすんだ!


 そこで、どこかの田舎の細道を歩き、手っ取り早く、安全で、易しく、手軽に、片雲の風に吹かれようかと思う。どこがいいか? やっぱり八高線だろうナ。それで高麗川駅から明覚へ抜ける、ということに落ち着いた。まあ、彷徨の真似事であるナ。



 高麗川駅から北方向に、細道を選んで好き勝手に歩き、予定どおりに道に迷った。たちまち不安になり、これだから”あてどなくさまよう”なんて夢のまた夢。やっぱり道を修正して、そしたら鎌倉街道に行き当たった。幅2mほどの砂利道が北へと続いている。
 なんだかさまよっている感じがしてきたゾ。この道はどこまで続いているんだろう、このゆく先に何があるのか、わくわく感が胸を満たす。時は春、天気はいい、不安はない、苦しいこともない、いい感じではないか。



 けれど、鎌倉街道と言われる道が尽きてしまって、たちまち困窮した。どっちへ向かえばいいのやら、ここは何処? 私は誰? 状態に陥った。”あてどなく”なんてほざいてみても、あてどが無ければたちまち立ち往生、困り果てる。
 やっぱりある程度、目指す行く先とする場所が必要なのだ、ということを自覚した。そうなれば、まず地図が必用となる。昔のさすらい人は、行く方向をどうやって決めたのだろうか? 今のような地図もなかっただろうしなあ。



 これにて、あっさりと”あてどなく”は中止する。あてど、がなくではどうもならん、と判明した。[彷徨・・・〘名〙 (形動タリ) あてもなく歩き回ること。さまようこと。うろつくこと。また、そのさま。〕と書いてあるが、”あてもなく歩き回ること”は無理だった。
 だから、”うろつくこと”に軌道修正する。ごろつき、じゃなく、うろつきだから、まあいいだろういと思う。実は地図を持参してきた。国土地理院の簡単なコピー、紙っぺら、これで大まかな行く先を決めようと思う。



 そうして、丘陵地が平野に落ち込んでくる、その境目当たりをうろつくことにした。地形に一定のパターンがあるように思われる。平野に接する丘陵地が細い流れを作り、流れの脇になだらかな谷間が形成され、谷戸地形となっているらしい。
 その同じような谷戸地形が幾つか、南から北へと連なっている。その谷戸に入り込むと、どこかで見たような、懐かしいような景観が展開していた。浅い谷間に田んぼや畑が広がり、向こう側の低い丘陵に民家が点在し、美しく屋根の裾を引いたお寺も見える。



 この谷戸を横断し、低い森を登って下りて、また同じような谷戸が現れるから、それは恐れいる。老夫婦が畑になにか植え付けていた。畑が広がる谷地の眺めがいいので、腰を下ろしてぼんやりと時間を過ごした。



 そこを又横断して、三つ目の谷戸に入る。今度はこの谷戸を上の方へと登っていくことにした。そっちの方向に明覚駅があるからなのだが、陽が傾いた谷戸の道からの眺めは、いたく郷愁を誘った。あまつさえ蛙まで鳴いてとても懐かしかった。


 
 そうして谷戸を登りつめて三たび低い丘陵を越え、夕方の明覚駅に着いた。
 あてどなくさすらう、は到底無理な話だとよ~く分かったが、さまよう、ないし、うろつく、ことは出来そうに思われる。だから今後もせいぜいうろつくことに意を傾けようと思う。漂泊とはうろつく、でいいのかどうかそれはわからない。
   
 さて、片雲の風が吹いたのかどうか、気が付かなったなあ!

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