涼風吹き来たって
かの養老孟子先生が説くところによれば、
「自分(私)には、自分(の脳)が規定する自分と、周り(社会)が規定する自分の二つがある。」。
そう言われてみれば、なんだかそのとおり、という気がする。そう言われるまでは、そんなことを思いつかなかった。もしそのとおりならば、自分が二人いると言ってもいいかもしれない。
自分が二人いる、というのはしかし、実に困ったことではないか。自分が分裂してるなんて考えたくもない。考えたくもないけれど、もしそうならどっちが自分なんだ!?
二つの自分という円が、がうまい具合にほぼ重なっていれば、そんなに困ることはない。重ならずにとんでもなく離れていれば、これは実に困る。
これで困れば、当然「自分(脳)が規定する自分」が本当の自分なのだ! と無理にも思いたくなる。そう思わなければ不安でしょうがない。なんとなれば、「周り(社会)が規定する自分」などというのは、実はよく分からないのだから。
養老先生は更に言う。
「自分が規定する自分なんてなんぼのモノか。人(他人)に理解されない自分なんていないも同然、そんなもの有っても無くても意味がない」
ここまで言われちゃあ、ほんとに立つ瀬がない。この世でかけがえがない存在は「自分の脳の中の自分」だと思い込んで揺るぎなかった。それを糞味噌みたいに言われたんじゃあ、頭にくる。頭にくるけれど言われる理屈は合ってるように思う。
・・・こういうことをもっと前に知っておきたかったなあ、と思うこともある。前に知っていたからと言って、それを自分で認めたかどうかはわからない。しかし、この歳になってようやく認められるような気になったように思う。
遅かりし由良之助!
遅かったと言えど、討ち入りはするらしい。
人生、遅れてもいいことがあるかもしれない。