たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

狭山丘陵 、初秋



 忘日、9月の「ぶら多摩さんぽ」を実施した。今回はガイド役。


 今回の散歩道は、モノレール終点「上北台駅」から八高線「箱根ヶ崎駅」まで、つまり狭山丘陵の麓を巡る。何を見るか? かってのトロッコ軌道のトンネルと、もう一つは、これもかっての田んぼを復元している里山保全地域。
 その途中では、江戸時代から今に残る石仏などに立ち寄る。要するに古臭いものばかり見て歩くのだけれど、12名の参加者いずれも年寄りで古い人間なのだから仕方がない。ま、年相応に温故知新ならぬ、温故温故でいくか。



 

 トロッコトンネルへ行く道すがらに古い石仏など見て歩く。村山貯水池、山口貯水池の湖底に沈んだ村々から引っ越してきたものが幾つかある。村山貯水池は大正時代末、増え続ける東京の飲料水確保のため造られた。
 羽村で多摩川から取水し、8㎞の導水管を埋設して村山貯水池に溜めて、武蔵野市の境浄水場へ送り東京の水を確保した。この時は導水管の脇に木製トロッコを引き、資材の一部を運搬したのだという。



 ところがたちまち水道水に不足をきたし、昭和初めに村山貯水池の隣へもう一つ山口貯水池を作らざるを得なくなった。この時には村山貯水池への導水管の上に改めてトロッコ軌道を引き、丘陵の一部にトンネルも掘られた。
 そのトンネルと軌道跡が今に残されている。軌間60㎜の軌道だから狭いけれど遊歩道と自転車道として現在も活用されている。5つ掘られたというトンネルのうち、3つを歩いてみる。トンネル内はこのくそ暑い時でもひんやりして気持ちがいい。
 誰かが「思ったより幅が広いトンネルだな」とつぶやいた。そうかもしれない、ドイツ製のディーゼル機関車がトロッコを引っ張ったというから、それなりの幅が必要だったのだろう。今残る軌道跡は3mぐらいか。


 それにしてもこの時代、東京の人口増加は思ったより激しかったんだなあ、と思う。村山貯水池の竣工が大正13年、それからなんとわずか3年、山口貯水池の工事がはじめられている。東京の人口爆発は高度成長期だけかと思っていたが、もしかすると明治以来ずっと増え続けに増加していたのかもしれない。



トンネルを抜けて目の前の児童公園で昼食。降らないとの予報だったが、絹のような細かい雨が降ってきた。藤棚の下のベンチで握り飯にかぶりついているので、これぐらいの雨は大丈夫。なんといってもこの時間が一番楽しい。
 ゆっくり休んで出発。現在の青梅街道を西へ。途中コンビで「味噌汁休憩」を取る、が味噌汁を飲んでいる人は自分だけで、あとはだれも飲まない。歩きの途中の味噌汁はとても旨いし塩分補給になるのだけどなあ。




 「禅昌寺」という寺に立ち寄る。「東京陸軍飛行兵学校」の慰霊碑がある。白い御影石の五輪の塔が美しい。4千名の特攻要員を出したという。説明板を読み、一同声がない。初秋の午後の陽は静かにやさしい。





 さて、丘陵の谷に入って里山保全地域へ行く。典型的な谷地地形。一番手前に江戸時代の復元農家があり、奥の左右に里山が伸び、その脇を小さな流れがさらさらと音を立てている。その間に田んぼが作られている。
 昔(いつ頃かは定かではないが)、この狭い谷間を田んぼが埋め尽くしていた。ご多分に漏れず、高度成長期、田んぼの耕作は放棄されゴミ溜め場と化していたらしい。そのゴミをトラック何千台分か運び出して田んぼを復元し、いまボランティアの手で田んぼ、畑、里山が管理されているという。


 一同、田んぼのあぜ道を歩く。なんだか嬉しそうにおしゃべりをしながら。子供たちはむろんはしゃいで畔を駆け回る。そんな風景を眺めながら、里山の麓の木陰で大休憩。みんな、次第に寡黙になってぼ~っと目の前を眺めている。
 時がゆるりと過ぎるような気がする。日ごろ忙しいわけでもないような爺婆だけけれど、こんな風のになかで長時間ぼんやりすることもまたない。都心などへ行った日にゃあ、若い人たちの群れに踏みつぶされるような気さえする。


 田んぼ里山は生き物の多様性がとても高いとも聞く。生物の環境として優れた場所なのだろうと思う。われらの世代には、どこにでもあったが今はほんの限られた場所にしか残っていない。単に懐かしいというより、守らねばならぬ、という気がしてきた。
 わが平成お徒隊も、そろそろそういうことをテーマにして歩いてもいいのかもしれない。ただ東京ではこういう場所を見つけるのが一仕事、という気もする。ま、どうせ暇なんだからぼちぼち考えてみるか。




 
夕方、箱根ヶ崎駅到着。
駅前の元気な御かみさんの居酒屋で盛大なる打ち上げ敢行。
歩行距離は約15㎞。

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