たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

玉川上水を歩く①   

とある組織の人が集って、東京近辺を「歩く会」結成。
コロナのおかげさまで9ヵ月ぶりに再開、で参加。
自分持ちで注意しつつ、コロナと共に歩こう!


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 羽村駅に集合したのは11名。久しぶりだが元気な面々、初参加も3名。今日は雲なき晴天にして無風。私晴れ女よ、私が参加したおかげよ! という図々しき言葉にどっと笑いが起こる。会長のⅠ氏のあいさつ。今回の案内役Ⅿ氏のコース説明。


 この「歩く会」も66回を迎えた。年間10回ほど開催するので、もう7年ぐらいになるだろうか。参加者は多くはないけれど、それだけに、いつも参加している人はお互いに顔見知りとなって、冗談の一つも出ようというもの。



 玉川上水は、よく知られているように、江戸府内の飲料の用水として江戸初期に開削された。ここ羽村の堰から四谷大木戸まで、多摩地方を東へ貫流して43㎞、この間の高低差がなんと、たったの126m。しかも途中の分水が自然流下する。だから武蔵野台地の一番高い峰を選んでいることになる。江戸時代の測量技術、開削技術の高さに驚くほかない。






 10時、煌めくような朝の陽射しを浴び、駅から街の中を通って羽村の堰へ行く。堰に到着してⅯ氏の説明。多摩川の流れは、渇水期のせいか、水が全部上水へ取り入れられている。と言っても取入口のすぐ下流にある吐出口から余分な水を多摩川へ戻している。


 玉川上水に引き込まれた水は、青い深みを見せ、奔流となって上水の下流へ。水路の土手の木々が紅葉して陽を照り返し、きれいな眺めだ。堰の広場のベンチには、ほかに4,5人、サイクリングや散歩の人たちが休んでいた。




 この堰から下流300mほどのところに、もう一つ水の取り入れ口がある。玉川上水に取り込んだ水の大部分を、村山貯水池へ送る堰。正面の堰から水を落とし込み、地下の導水管を流れ下って、狭山丘陵にある貯水池へ送り込んでいる。大正時代に作られた。




 今日はまた、なんという日和であろうか。晩秋の陽ざしは惜しげもなく燦々と照り、温かく、シャツ姿でもしっとりと汗ばんでくるようだ。色づいた木々の葉が、その明るい陽を照り返し、きらきらと煌めく。




 小さな公園の噴水は陽差しを受けて輝き、水面は煌めき、欅の葉が明るく照り返し、子供は犬と戯れる。四季の移ろいがはっきりしている日本は、たとえ殺風景な東京でも、すこし郊外に出ればそれなりの季節を感じることができる。




 上水沿いの小道を歩いて「田村酒造」へいく。ここでは酒の醸造は地下水を利用しているものの、上水の水を引き込んで酒米の精米等に利用していたほか、生活用水、農業用水としても利用したとのこと。醸造所内にその水が流れていた。




 今度はまた、上水の水を引き込んだ「熊川分水」を辿っていく。この分水も生活用水や製糸業用水として利用され、更に石川酒造に引き入れられ、酒蔵米精白の水車を動かしていた。現在もこの用水はさらさらと流れている。


 石川酒造にたどり着いて、ここで昼食時間。現在は111年ぶりに地ビールを復活させ、敷地内にレストラン、ランチ休憩所(雑蔵)などがある。メンバーは雑蔵に入って、おにぎり、唐揚げを買い、地ビールを片手にささやかながら「歩く会」再開の祝杯を上げた。




 その後、近所の熊野神社、福生院、地頭井戸などに立ち寄ってから玉川上水に戻って、「水喰土(みずくらいど)公園」に入る。ここは上水の流れが地中に吸い込まれてしまったため、流路を変えた場所。そのため水喰土の名がある。


 公園内の上水際の小道を通り抜けると、日光橋がある。八王子千人同心が日光火の番にその勤めを変えたころ、ここを通って日光へ通ったことからその名が残った。明治時代に煉瓦積みに変えられ、その煉瓦が残っている。



 
 




 拝島駅近くに到着して、拝島分水、殿ヶ谷分水の取入口を一瞥してから、拝島駅前で解散、15;00ころ。いつも通り最後を、お疲れ様の一杯で締めくくりたいけれど、状況柄、懇親会はしばらく中止。今日は秋の素晴らしい一日でありました。




 コロナは当分ゼロには出来なさそうだ。
 ならば、コロナとともに活動しよう。
 感染と事故は自分持ちで!

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