たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

青梅さんぽ



ようやく秋らしい美しい空になったので散歩に行こうと思う。


近場で、青梅辺りをぶらりとしてこよう。「青梅新町」というのは、江戸時代の最初期、吉野織部之介が初めて武蔵野の原野に進出して開拓した村だという。その面影がなにか残っているのか、探してみよう。もう一つは、鎌倉・戦国時代にこの地を治めた三田氏の居館の跡があるというから、その跡地にでも行ってみよう。


こんなものは単なる暇つぶしちゃあヒマつぶしだけれど、年寄りにとって暇をいかにしてつぶすかは大問題。どうせなら少しでも歩いて、以てして腹を凹ませ、気分を転換せしめ、あまつさえ粗大ゴミとなるを回避せざらんと欲す。




青梅線・小作駅下車 10:00。北へきれいな道路が一直線に伸びている。電線は煉瓦敷きの歩道に埋められているらしく電柱がない。これはしたりと思う。こんなところにこんな立派な道路が、と思わざるを得ない。誠明学園の途方もないような敷地が森におおわれている。都の児童福祉施設だという。



現在の青梅街道に突き当たった交差点の名が「新町桜株」、この辺りが青梅新町の中心地だったのかもしれない。交差点脇に広場があり、その脇に古い道しるべが残っているが青梅新町を偲べるものは何もない。


吉野織部之介は忍城主の臣であったが、落城の後この付近の霞川岸辺の村落に住み着き、名主を務めていた。それが一念発起、当時茅の原だった武蔵野台地を開墾して新しい村を作ろうとしたのが、1611年(慶長16)、願い出て許され6年の苦闘の末小さな村、畑の耕作地が出来上がって人が住み始めた。



西へ少し行くと「東禅寺」がある。織部之介が開基したものという。境内の隅に開山開基の碑があり、開基者として織部之介の名が刻まれている。江戸時代は村が開発されると、必ず神社と寺を村内に作ったものらしい。




近くに「大井戸公園」があり、まいまいず井戸が復元されている。これは織部之助の協力者、塩野家の井戸だったという。武蔵野台地は小さな川がないから水の確保に、ものすんげー苦労をする。この井戸だって直径30数mもありローム層を掘り込むのは容易なことではないと思う。



織部之介の出身地、奈良・吉野から勧請したという近くの「御嶽神社」へ行く。ここには御嶽神社、塩釜神社、新町天神社が祀られ、神様のオンパレードだ。庭のひと隅に「織部之助顕彰碑」がある。七五三の晴れ着を着た可愛い子供たちと爺さんの写真家。




また少し青梅街道を西へ行くと道沿いに吉野家の江戸時代の住宅が復元されている。さして大きな家ではないが、左手奥には床の間、違い棚、付け書院の座敷があり、こちらの玄関には式台がついている。宿場の本陣を思わせる。


この家は昭和52年ごろ一部改修され都の指定文化財になっている。裏側に道を隔てて吉野さんが住まわれており、現在まで連綿と吉野家が存続しているらしい。凄いことだと思うか、ま、当たり前だと思うか、どっちだろう。





さて、青梅新町、織部之介関連の面影はこれくらいだが、いま歩いているこの地が、400年前は一面の萱が原で、その中を一本のか細い青梅街道だけが通じていた、という風景はなかなか想像でき難い。


区画整理された現在はみっしりと家々が建込み、青梅街道はぶんぶんと車が走り、人々は好きなだけ飲みかつ食うことができ、全くの別世界となった。だからというわけではないが、大きな交差点に「つくも蕎麦」がある。


盛り蕎麦注文。緑ががかったきれいな細めの蕎麦。メニューを見るとカレーやラーメン、丼もの、なんでもある。きょうび蕎麦だけでは立ち行かないらしい。街中の蕎麦屋はどんどんなくなっているかに見える。蕎麦好きは寂しい。



ここから旧青梅街道は現青梅街道と離れて、北の住宅を貫くように通じていたらしい。歩くのに住宅を貫くわけにはいかない。ひとまずまっすぐ北に行き、しかる後西に向かう。そこに道しるべが残されている。


自然石に「馬頭観世音」と彫り込んであり、「文政一四年 野上村」「右 かわこえみち。 左 はんのふ ちちぶ」などという文字がかろうじて読み取れる。脇に立派な石碑があり、この道しるべをもともとあったこの場所に戻した、旨書かれていた。




しばらく西へ行くと同じような道しるべがあった。武蔵野の茅野が原は茫々として、道しるべがなければ、どこかトンでもないところへ行ってしまう恐れ十分だったのだろうと思う。現在の我々は道しるべなき人生を歩んでいるのかもしれないけれど。



霞川に近づき、眺めると一段低くなった川べりに家々の屋根が見える。この川の流域は石器あるいは縄文時代の遺跡が数多く発掘されただけでなく、弥生時代の稲作の跡も見つかり、古来より人々の生活があったらしい。この地域のどこかに織部之介は住んでいた。


霞川を横切って丘陵の麓の妙光院へいき、裏山に登る。「勝沼城址」の看板がある。薄暗い杉木立の山道を登ったり下ったりして、僅かばかりの平地に出た。ここが主要な廓の跡だったらしい。



この城は築城年代不明だそうだが、中世以来この地を治めてきた三田氏の居城だったことは間違いないらしい。三田氏は鎌倉、室町、戦国と約300年、羽村以西の多摩地域に領主として君臨し、産業、文化を興し発展を担ってきた。


しかし栄枯盛衰久しからず、西の辛垣城(軍畑駅近く)に逃れ、北条氏照と戦い敗れて、ときの勝沼城主は自刃した由。そんなことを思いながら、晩秋の午後の柔らかい陽を浴びて眼下の青梅市街地を眺める。



さてさて今日の散歩はこんなところだろうか。下に降りて霞川の岸辺を西へ歩き、川のせせらぎの中の小魚の群れを眺めて子供時代を懐かしみ、東青梅駅近くから現在の青梅街道即ち昔の青梅街道へ合流し、宿場の風情を感じながら青梅駅へ。


まだ3時で、ちと早いけれど居酒屋を探す。街中にお祭りの見物人らしき人々がわらわら歩いている。秋祭りかあ! 居酒屋なきがゆえに小さなラーメン屋、仕方がなければやむを得ない。ビール一本にニラ玉。



たった1本のビールが体を駆け巡ってたちまちホンワカしてくる。
店には3人の爺さんたちが競馬の話。
ゆるゆるとビールを飲んで体がほぐれてくる思い。
今日の歩行距離は、11㎞ほど。

台風接近、お徒隊がゆく



 恐ろしい化け物がつ近づいてきている11日、お徒隊が多摩丘陵を歩いた。


 何もこんな時に好き好んで、ではあるが、ある事情で実施したかった。前日の10日、天気予報とにらめっこで、やるべきかやらざるべきか、悩みに悩んで疲れ果て、それでも当日は1時間に1㎜程度の雨とのことなので、決行と決めた。




 当日、曇り空の集合地駅に集まったのは全員9名。今回の企画ガイドは不世出の晴れ女s女史のであり、その神通力が見事功を奏して雨は降っていない。女史の案内するところでは、今回は町田市の「小山田緑地」を歩くという。


 


 10時、丘陵の尾根道に出たが地面も濡れていないし風だって吹いていない。女史の魔力に一同いたく感動、ついでではないけれど、ナンとかチョッキン虫というのは、ドングリに一つ卵を産み、枝ごと切り落として地面に軟着陸させるのだ、という女史の説明にさらに感動。





  小山田緑地は大きく言えば多摩丘陵の一部で、町田市域に入る。多摩丘陵のうち多摩市の側は、天地をひっくり返すような開発で多摩ニュータウンとなったが、町田市側は比較的丘陵の面影が残されている。
 その尾根道を上ったりおりたり、道野辺に茂る夏草がようやく秋の色を帯び、これはなんだ? あれじゃないか、これじゃないか! と、植物に詳しい者が参加していないのでちっとも埒が明かない。





 この一帯は、町田市の大部分を含めて鎌倉武士、小山田某(なにがし)の領地だったらしい。昼飯の後に行く予定の「大泉寺」境域はその某の居館があった場所と言われていて、そのため、弓の訓練所の「的場」があったり、馬を飼っておく馬場窪などという地名が残っている。
 その「的場跡」に行ってみる。尾根道からなだらかな草地を下って、喬木の下陰に小さな石柱があり「小山田城的場跡」の文字が見える。比較的平らな地形なので、ここで流鏑馬のように騎射の訓練をしたのではないかとは、女史の説明。





 別な丘陵に登って下って「馬場窪」という広々とした草原へ。運動公園になっている。あずま屋があって屋根があるからここで昼飯。ちょうど反対側から10名ほどの中年女子軍団も降りてきて、お互いここで昼飯。
 四角いベンチにま~るくなって腰を下ろし、肩寄あってじじばば軍団(我われ)とおばさん軍団とが戦争もせずに二つのベンチを分け合って楽しく飯を食う。おばさん軍団は多摩ニュータウン駅から歩いてきた、と言っていたような?




 
 大泉寺へ向かう途中に「見晴台」という、丹沢山地、さらに遠く富士山、多摩の山々を見晴るかす尾根がある。さすがに今日は麓の街並みぐらいしか見えないけれど、あの辺りに何があり、この辺りにかにがあって、などと結構楽しい。
 晴れていればなあ、などと思うのはよくない。現に曇っているのだし、幸いにして雨はまだ降らないし、これで上等としなければ話にもなんにもならない。恐ろしげな台風の、その訪問前の隙間を縫って歩くのだから贅沢を言っては困る。





 この草地で「ナンバンキセル」という変てこりんの花を見つけたのだけれど、スマートホンで写したためか、ここへアップロードできないようだ。この手の知識に乏しいのだが、いまさらそれに詳しくなってもなあ! という気もする。
 代わりに麓で見つけたヒガンバナを、多少時期遅れではあるが掲示しよう。ところで話は脇道に入ってしまうが、毎年恒例のキンモクセイはまだ匂ってこない。これもどういうわけだか知らないけれど、今度の台風のもの凄さとともになんだか変てこだ。





 さて大泉寺に着いた。本堂のある裏山一帯が小山田某の居館があった場所だというが、いまは様々なお堂になっているらしい。らしいというのはその場所に登らなかったからであり、登らなかったのはズルをしたのであり、s女史の説明で十分だったからでもある。
 大泉寺の総門は見事な八脚門であり、中になにやら身の丈ほどの像が祀られているが中が暗くてよくわからなかった。山門の前では写真を写したが、一同目つきが良くないためか自ら隠してしまったので、せっかくの美男美女も面影がよくわからなくなった。




 大泉寺の境内をうろうろしていたら雨が落ちてきた。どうやら本式に降るらしい。時刻は2時ころだが今回はここまでで終了とすることにした。どっちみちあとは駅まで帰るだけなのでほぼ終わったようなものだけれど。
 バス通りまで歩く間に雨は止まず少し強くなってきた。幸い風がなくて傘を差すだけで充分間に合う。そうしてバスに乗って多摩センター駅へ到着、s女史の神通力に感謝しつつ、次回もまた恙なきことを祈って解散。






 我らが「平成お徒隊」はとある学習機関のサークルであり、そこで知り合った仲間だが概ねみな多摩地方に住んでいる。住んではいるのだが東京のことも多摩地方のことも、実はあまりよく知らない。
 地方から出た者も東京出身の者も混在しているが、住んでいる地域のことをよく知らないから歩き回って少し知ろうじゃないか、ということでできたサークル。毎月1回、適当(適切)にコースを企画し、機関在籍の人に呼びかけて、そうして歩いている。


 それで自分としては、退職後の世間がだいぶ広がった。

狭山丘陵 、初秋



 忘日、9月の「ぶら多摩さんぽ」を実施した。今回はガイド役。


 今回の散歩道は、モノレール終点「上北台駅」から八高線「箱根ヶ崎駅」まで、つまり狭山丘陵の麓を巡る。何を見るか? かってのトロッコ軌道のトンネルと、もう一つは、これもかっての田んぼを復元している里山保全地域。
 その途中では、江戸時代から今に残る石仏などに立ち寄る。要するに古臭いものばかり見て歩くのだけれど、12名の参加者いずれも年寄りで古い人間なのだから仕方がない。ま、年相応に温故知新ならぬ、温故温故でいくか。



 

 トロッコトンネルへ行く道すがらに古い石仏など見て歩く。村山貯水池、山口貯水池の湖底に沈んだ村々から引っ越してきたものが幾つかある。村山貯水池は大正時代末、増え続ける東京の飲料水確保のため造られた。
 羽村で多摩川から取水し、8㎞の導水管を埋設して村山貯水池に溜めて、武蔵野市の境浄水場へ送り東京の水を確保した。この時は導水管の脇に木製トロッコを引き、資材の一部を運搬したのだという。



 ところがたちまち水道水に不足をきたし、昭和初めに村山貯水池の隣へもう一つ山口貯水池を作らざるを得なくなった。この時には村山貯水池への導水管の上に改めてトロッコ軌道を引き、丘陵の一部にトンネルも掘られた。
 そのトンネルと軌道跡が今に残されている。軌間60㎜の軌道だから狭いけれど遊歩道と自転車道として現在も活用されている。5つ掘られたというトンネルのうち、3つを歩いてみる。トンネル内はこのくそ暑い時でもひんやりして気持ちがいい。
 誰かが「思ったより幅が広いトンネルだな」とつぶやいた。そうかもしれない、ドイツ製のディーゼル機関車がトロッコを引っ張ったというから、それなりの幅が必要だったのだろう。今残る軌道跡は3mぐらいか。


 それにしてもこの時代、東京の人口増加は思ったより激しかったんだなあ、と思う。村山貯水池の竣工が大正13年、それからなんとわずか3年、山口貯水池の工事がはじめられている。東京の人口爆発は高度成長期だけかと思っていたが、もしかすると明治以来ずっと増え続けに増加していたのかもしれない。



トンネルを抜けて目の前の児童公園で昼食。降らないとの予報だったが、絹のような細かい雨が降ってきた。藤棚の下のベンチで握り飯にかぶりついているので、これぐらいの雨は大丈夫。なんといってもこの時間が一番楽しい。
 ゆっくり休んで出発。現在の青梅街道を西へ。途中コンビで「味噌汁休憩」を取る、が味噌汁を飲んでいる人は自分だけで、あとはだれも飲まない。歩きの途中の味噌汁はとても旨いし塩分補給になるのだけどなあ。




 「禅昌寺」という寺に立ち寄る。「東京陸軍飛行兵学校」の慰霊碑がある。白い御影石の五輪の塔が美しい。4千名の特攻要員を出したという。説明板を読み、一同声がない。初秋の午後の陽は静かにやさしい。





 さて、丘陵の谷に入って里山保全地域へ行く。典型的な谷地地形。一番手前に江戸時代の復元農家があり、奥の左右に里山が伸び、その脇を小さな流れがさらさらと音を立てている。その間に田んぼが作られている。
 昔(いつ頃かは定かではないが)、この狭い谷間を田んぼが埋め尽くしていた。ご多分に漏れず、高度成長期、田んぼの耕作は放棄されゴミ溜め場と化していたらしい。そのゴミをトラック何千台分か運び出して田んぼを復元し、いまボランティアの手で田んぼ、畑、里山が管理されているという。


 一同、田んぼのあぜ道を歩く。なんだか嬉しそうにおしゃべりをしながら。子供たちはむろんはしゃいで畔を駆け回る。そんな風景を眺めながら、里山の麓の木陰で大休憩。みんな、次第に寡黙になってぼ~っと目の前を眺めている。
 時がゆるりと過ぎるような気がする。日ごろ忙しいわけでもないような爺婆だけけれど、こんな風のになかで長時間ぼんやりすることもまたない。都心などへ行った日にゃあ、若い人たちの群れに踏みつぶされるような気さえする。


 田んぼ里山は生き物の多様性がとても高いとも聞く。生物の環境として優れた場所なのだろうと思う。われらの世代には、どこにでもあったが今はほんの限られた場所にしか残っていない。単に懐かしいというより、守らねばならぬ、という気がしてきた。
 わが平成お徒隊も、そろそろそういうことをテーマにして歩いてもいいのかもしれない。ただ東京ではこういう場所を見つけるのが一仕事、という気もする。ま、どうせ暇なんだからぼちぼち考えてみるか。




 
夕方、箱根ヶ崎駅到着。
駅前の元気な御かみさんの居酒屋で盛大なる打ち上げ敢行。
歩行距離は約15㎞。