たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

夏が来れば



 今年仕込んだ紫蘇をジュース飲んでみた。
 やはり旨い。去年のは甘さも酸味もちょっと強く濃ゆい味で、それはそれで旨いと思って飲んでいた。が、今年のは両味ともちょっと薄く、さっぱりした味になっている。両方とも、まあ旨いと思う。
 「個人の感想です」が、紫蘇ジュースは疲労回復、夏バテに爆発的に効くような気がする。10㎞ほどさんぽした翌日よくこれを飲むが、たちまちにして体の状態が元に戻るのを自覚する。気のせいだと言われれば、それはなんとも言い難いけれど、気のせいでも疲労が回復すればそれでオンの字。


 昔からこのジースがあったかどうか、子供のころは飲んだことはもとより見たこともなかった。どこかの地方で恒常的に作られ飲まれていたのかもしれないが、あまり聞いたこともない、と言っても世間が狭いからなあ!
 自販機の変てこりんなジュースなどよりはるかに体に良いのでは、と思うけれど一般にあまり飲まれてもいないようだ。先日テレビのお国自慢で、愛知出身の光浦靖子さんがこの味と、疲労回復効果を強く紹介していたが、ほかのタレントは無関心のようだった。


 それはともあれ、これからも愛飲しようと思う。 
 何にしろ自分には効果的だと思うから、
 他人がどう思おうといいや。





 今年の梅漬けも食えるようになった。
 角張った塩気がだんだん馴染んできて抵抗感がなくなった。梅の実の清々しい香りが芬々している。この暑い夏が過ぎるころ、もっとまろやかになるに違いない。去年の梅漬けがちょうどなくなったので、これから大いに食おうと思う。
 残っていた去年の梅漬けと比べると、まず色が初々しくきれいで、梅の香りが強く、酸味が強い。去年のが熟年とすると、出来立ての今年のは青年、と言うところだろうか。ま、例えが適当じゃないやね。


 これもまた、疲労回復に効果あり、と思っている。汗を大量にかいてなんだか体に塩っけが足りないな、と思ったら、この実を一粒大きなコップに入れて砂糖ないし蜂蜜など適量たらし、実をつぶして上からお湯をどぶどぶ注いでおもむろに飲む。
 たぶん、塩分補給と体調の調整に最適だと思う。そう思うのはこの歳になってからで、若いときは見向きもしなかった。見ただけで身震いするような始末だった。ヒトは変わるらしい。考え方も変われば、体は勿論、好みさえしばしば変わる。


 しかし、こと飲み物食い物は、人それぞれの好みが強く出る。
 だから、自分の飲みたいもの食いたいものを
 自分に相談して飲み食いすればいいと思う。


 ただ、今流行っているから、外国で食されているから
 という理由は、恭しく敬遠したい、と思う。

涼風吹き来たって



 かの養老孟子先生が説くところによれば、
「自分(私)には、自分(の脳)が規定する自分と、周り(社会)が規定する自分の二つがある。」。


 そう言われてみれば、なんだかそのとおり、という気がする。そう言われるまでは、そんなことを思いつかなかった。もしそのとおりならば、自分が二人いると言ってもいいかもしれない。


自分が二人いる、というのはしかし、実に困ったことではないか。自分が分裂してるなんて考えたくもない。考えたくもないけれど、もしそうならどっちが自分なんだ!?
 二つの自分という円が、がうまい具合にほぼ重なっていれば、そんなに困ることはない。重ならずにとんでもなく離れていれば、これは実に困る。


 これで困れば、当然「自分(脳)が規定する自分」が本当の自分なのだ! と無理にも思いたくなる。そう思わなければ不安でしょうがない。なんとなれば、「周り(社会)が規定する自分」などというのは、実はよく分からないのだから。





 養老先生は更に言う。
「自分が規定する自分なんてなんぼのモノか。人(他人)に理解されない自分なんていないも同然、そんなもの有っても無くても意味がない」


 ここまで言われちゃあ、ほんとに立つ瀬がない。この世でかけがえがない存在は「自分の脳の中の自分」だと思い込んで揺るぎなかった。それを糞味噌みたいに言われたんじゃあ、頭にくる。頭にくるけれど言われる理屈は合ってるように思う。



 ・・・こういうことをもっと前に知っておきたかったなあ、と思うこともある。前に知っていたからと言って、それを自分で認めたかどうかはわからない。しかし、この歳になってようやく認められるような気になったように思う。



遅かりし由良之助!


遅かったと言えど、討ち入りはするらしい。


人生、遅れてもいいことがあるかもしれない。

とりとめなし



起きた、飯食った、寝た、
というように直接自分の体が経験したことを文字に書くのは比較的に易しいように思う。


けれど、体で体験したことでなく、脳みその中だけで「体験」?したことを書くのは難しい。この場合は体験でなくて「妄想」というべきかもしれないが、その妄想したことだって書くのは難しいと感じる。(その点、小説家なんて偉いよなあ! )


それでもまあ、脳みそに去来した妄想のごときものを何とか文章にしたとしても、よくよく吟味してみれば、みんなどこかから借りてきた考えを、そのまま妄想しているに過ぎない、と気付く。


テレビだったり本だったりで、その考えはすでに誰かが話したり書いたりしている。自分の脳みそだけから出来上がった、まっさらな考え、なんて全く無い、と気付いて唖然とする。長い間生きてきて、この年になってもまだ、自分独自のモノの考え方がまるでない、ということはどういうことだろうか、と空しくなってしまう。



そう考えると、誰かがすでに話したり書いたりした考えを、そのまま得々と書く、というのは盗人猛々しいかもしれない。だから、得々として盗人猛々しいのはちょっと遠慮しておこう、と思う。


となるとやはり「起きた、飯食った、寝た」を書くよりほかない。仕方がないからそれを書いてみると、これは誰でもが同じよう体験なのだから、同じような内容になってしまう。自分と同じような内容の、他の人が書いたものを親身に読む、ということは、まあ無いだろうと思われる。これもまた空しい。



ほらネ、


脳みそに浮かんだ妄想を書けば、


かくの如く、とりとめなくなってしまう。