光よ
とうとう冬至を越えた。まことに嬉しい。
この時期になると、寒いけれど、ベランダから西の空を眺めて早く日が伸びないかなあと、首を伸ばして眺める。冬の西空は、どうかすると、黄金色に輝いて時に雲が赤く染まり、雲と空の地の色が瞬く間に変化して、眺めていてあきない。
お正月よりもクリスマスよりも、自分にとって冬至はより意義深く感じる。何しろこの日を境に、太陽は日に日に輝きを増し、昼が伸びて行って明るくなる。それだけでなにやら希望が湧いてくるように思われるから、嬉しく思われる。
昔はこの日を、やはり嬉しいことと考え、ゆず湯に入ったり、かぼちゃを食ったりしたという。そういう記念を執り行いたい気もするが、かぼちゃはどうも腹が張っていけないし、風呂にどっさりぶち込むほどのゆずも買えない。だからやっぱりただ過ぎていく。
そんなことで、伝統的な年中行事はますます関係ないものになってしまった。お正月だって、ほぼ、たんに飲んだくれて過ぎていくだけだし、お正月がこの体たらくだから、あとはもう推して知るべし、なあ~~にもしない。
子供の頃、親にしてもらった節句ごとの行事が懐かしく思い出される。5月の鯉のぼり、粽、しょうぶ湯、7月の七夕は餅、9月はやはり餅を食ったような気がする。秋の月見団子、冬のゆず湯、そして小正月の赤白の団子飾り・・・
これから光が増えてくるのは嬉しいが、寒さが底に向かうのはいささか憂鬱、とは言え、それは雪国の比ではない。不満をこいたら鈴木牧之に張り倒されるのが関の山、屁のようなものと思ってただじっと我慢する。
それにしても、この時期になると毎年「雪による立ち往生」が繰り返されるのは、どうにかならないものだろうか。毎年々々、想定外のドカ雪が降るわけでもないだろうと思うから、一度ひどい目にあったらそれに学ぶことはできないものだろうか。
学んでほしいのは、もちろん国(国土交通省?)や地元行政であって、車で通りかかった人はむしろ被害者だと思う。その中から犠牲者も出ているし、それでもって、毎年同じことが繰り返されるというのはどうにも理解できない。
ともあれ、日が伸びて明るい輝きを増していくのを楽しみにして、
あとは、なんとか寒さをこらえるべく、腹に力を入れて行こうと思う。