たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

春よ来い




 ふらりと表に出て、ぶらぶらと歩いていたら玉川上水に突き当った。


 頭の中で「不要不急の、不要不急の、・・・」という語が飛びかっていたが、冷たそうな上水の流れを見ていたら、いつの間にか消えていった。上水は、渇水期なのか、水量が少ないように見える。岸辺の遊歩道をぶらぶらと歩く。




 岸辺の土手は枯れ草に覆われ、ここではまだ春の兆しは見えないなあ。空は晴れているが、冷たい風が吹いている。ときどき散歩の人と出会うけれど、100%の人がマスクを付けている。人の少ない散歩道ではマスク不要だと思うのだけれど。


 そういえばしばらく前、同じような散歩道のベンチで休んでいたら、前を通った中年の男が射すような目つきで睨んだことがあったっけ。後でその目つきを思い出して、そのときマスクをしていなかったことに気づいた。


 散歩道では、誰かと会話することもないし、人と出会ったときには距離を取るようにしているのでマスク無しだったのだが、どっこい、世間様はそうではないらしい、とそのときに気づいた。”表に出たら、なに構わずマスクをすべし”が世間の約束だったらしい。
 世間様は強い。地域の世間から逃げ出したら、会社にも世間があって、そこも嫌だから抜け出し、ふと周りを眺めたら、ぽつんと一人ぼっちになっていた。それで無性に寂しい、なぜだろう。この世で独り自立して、生きていく力がないのだろうか?
 何事によれ、世間様には逆らえない。世間にからめとられるのはだ! 俺は俺だ!俺は「自立した個人」だ、と「世間様」と衝突しても、まだまだ日本じゃ世間様の敵ではない。個人と世間のはざまで迷い、生きずらい、とか言って苦しむ。ともあれ、マスクをしよう。




 上水の上に蓋をして草っ原の公園にしてある。玉川上水の三鷹までの間、上水に蓋がしてあるのはおそらくここだけだろうと思う。なんでも戦時中、昭和飛行機の敷地を拡張するにつき、蓋をしたのだ、と聞いたことがある。
 玉川上水は、考えれば考えるほど貴重な歴史遺産だと思う。今調べてみたら、だから国の史跡に指定されている、という。これを後世に残すべく、いま整備中だともいう。是非とも岸辺の遊歩道を気持ちよく歩けるよう整備してもらいたいと思う。


 


 玉川上水から砂川用水が分水している。覗いてみると土管からちょろちょろと染み出すように下流へ。砂川用水はこのあと五日市街道に沿って流れ、江戸時代、その流域に砂川新田が開発された。数ある上水の分水でのうちでも重要なものだったらしい。


 しばらくの間、左手、木々の奥に玉川上水と、右手、白い塀の手前の砂川用水に挟まれた道をたどる。どちらも水面は見えないけれど、季節によっては雑木の葉が茂りあって、涼し気な影を作る道だ。細い道だから車が少ないのもいい。




 そして天皇橋まで来た。ここから玉川上水はそのまま東進し、砂川用水は五日市街道に沿って南側に離れていく。砂川用水を追いかけてみたことがあるが、砂川家の屋敷付近までは辿れるものの、その下流はなんだかうやむやになって分らなかった。



 一方玉川上水は、ほどなく残堀川に突き当たり、両者は立体交差する。水が流れている玉川上水が平身低頭して下に潜り込み、ふだん流れの無い残堀川が空威張りをして上を越していく。でも残堀川はいったん雨になると、とんでもない水量となるらしい。

  




 そこからほどなく、上水脇の日影公園に到着し、昼飯。ここは砂川家のもと田んぼの跡地らしい。五日市街道に面した母屋の裏側になっているが、公園ばかりでなく、ゲートボール場や野球場もあり、ともかく広い。
 風が少し冷たいものの、日差しが強い。子供たちは嬉々として日差しの中を飛び回っている。そういえば間もなく立春だなあ。日脚もだいぶ伸びたように思う。日没が30分ぐらい延びて5時ごろになったようだ。


 日の長さを図るに、去年の同じ月を思い出そうとしてもなかなか困難、だからこうおぼえることにした。即ち、1月は11月、2月は10月、3月は9月、4月は8月、5月は7月とそれぞれ同じ、6月は最長、12月は最短。これだとなんとなく日の長さが分かるような気がする。



 日影公園の細道を伝って五日市街道へ出ようとした。が、だんだん畑に入り、どろんこ道となり、黒い泥が靴にべったり着き、よその家の敷地みたいなところをおろおろ抜けて、ようやく街道に出てほっとした。
 砂川家の屋敷はこれまた膨大な広さだ。100mも生け垣がめぐらしてある。街道から奥まった場所に立派な古い門が見える。「なにごとのおわしますかは知らねども」という感じだが、400年以上も続いている旧家は珍しいのではないか。




 そのまま五日市街道を歩いてみる。古くからの街道だから昔風の建物が残っている。白壁の土蔵に梅が映える。古い構えを残しつつ、造作を近代的にした家も見られる。旧街道を歩く楽しみは、伝統的な建築物を見ることにあるような気がする。




 砂川家が砂川新田を開発した当時に、出身地の箱根ヶ崎から勧請したという阿豆佐味天神社がある。本社が瑞穂町に残っているが、あちらより数段立派に見える。氏子さんの数の違いだろうか、それとも懐の具合だろうか。(失礼しました)




 芋窪街道に突き当たって、玉川上水駅に向かって北上する。頭の上を多摩モノレールが走る。できれば落ちてこないでもらいたい。考えてみれば、都市というのは実に危うい均衡の上に存在しているんだなあ、と思う。
 とんでもない大地震があると仮定する、モノレールはぐらりと落ちてこないでっか、高層ビル群はどないになりますねん、道路の車が燃えて火の大河になりませんでっしゃろか。ま、そんなこと考えてもしゃあない、そのときはそのときか。




 そして玉川上水駅到着し、玉川上水に再会。
 時刻は2時半ごろ、まだ早いけれど、先ほどから泥靴が気になってしょうがない。
 風も冷たいし、ズルしてここから帰ろ。約10㎞。
 春はまだ少し先か?

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