たまたま日記

たまにしか書かないに日記         遊びをせんとやうまれけむ   戯れせんとや・・・・

らっかん




 駅に向かう冬の空がよく晴れて薄い雲がゆっくりと流れ、冷たい風が少し吹いていた。
 むき出しの手でバッグを下げている。バッグの中には今日使うグランドシートが入っている。「太極拳」に関する無料の講座みたいなものがあって、それに参加するため駅に向かっているのだ。通学する高校生がかなりの勢いで自転車を飛ばしてくる。



 会場の教室には、もうだいぶ人がいる。開いた席を見つけて神妙な顔で座り、授業の準備をしながら周りを見ると、中高年の男女に交じって若い年齢の人もちらほら見える。若い人もこういう口座に興味があるのだろうか。


 女性の講師が入ってきた。にこやかな笑顔を向けて聴講生の方をぐるりと見まわした。マスクをした顔を見ると、それなりの年齢のように見えるが、すらりとした体を絹の中国服みたいなもので包み、頭にベレー帽を乗せている。


 講師は、聴講生同士が打ち解けた中で授業を進めたい、みたいなことを盛んに話した。それで、これから出欠を取るけれど、名前を呼ばれたものはここに居る皆さんに向かっても顔を見せてください、と言った。


 とっ初めからそんなことを言われ、名前を呼ばれた人たちは恥ずかしいのか、例外なく、みんなに向かって、ぴょこぴょこと大急ぎで頭を下げていた。意表を突かれて戸惑いを見せている感じが現れている。



 だがしかし、奇妙なことに名を呼ばれなかった。何故だかわからないので、ぼう~~っとした顔をさらしたままだったらしい。大急ぎで事務の人が寄って来て、申込の番号を確認してどこかへ行ってしまった。授業はそれを置いてけぼりにして進んでいった。


 事務の人が戻って来て言うには、参加の日が間違っている、今日は「伝統太極拳に学ぶ体の使い方」の講座である、あなたが申し込んだのは「伝統太極拳における身体技術の基本」であって、それは1か月先に行われる講座である、と言った。


 おそらく、間違ったことが、皆の前でどえらく恥ずかしく、顔が赤くなったらしい。次にこの間違いは認知機能不全のためかと思い、顔が青ざめたに違いない。赤くなったり、青くなったり、大変に忙しい。



 このままいても何の役にも立たず、皆さんのてまえ恥ずかしさにいたたまれず、そそくさと引き上げた。帰る電車の中で、呆けたような顔をし続けたに違いない。そうか、認知症もここまで進んでしまったのか、エライことだと。


 そして帰宅してから考えた。ひょっとしてこれは、こここまで似通った講座の名前がいけないのではないのか。「伝統太極拳に学ぶ体の使い方」と「伝統太極拳における身体技術の基本」と、講師も同じだ。これは間違っても仕方ないのではないのか、と。


 そう考えて、この間違いは、自分が悪いのではなく、口座の名前が悪いのだと、無理やりにも思うことにした。「失敗は他人のせい、成功は自分のせい」である。心理学の本によると、この考え方は「うつ」予防のために重要だとある。



 何事であれ、自分をひときわ可愛がらなければいけない。
 悪いのはみんな他人、又は状況のせいである。
 それに徹すれば、この世に怖いものは何もない。

忘年会




 もみじの季節も去って、いよいよ冬に向かう。


 来週あたりから、寒さが平年並みになるらしい。冬だから寒いのは仕方がないが、出来るなら勘弁してほしいと思っている。それでもって、思わぬ暖冬だったら、これはもう目っけもので、ぬくぬく過ごせればありがたいと考えた。



 そんなわけで、今年も残り少なくなってきた。それで忘年会の季節となった。小さな集まりの忘年会が2度続いた。ひとつは「歩く会」で、年金族であるからファミレスでささやかにひっそり行われた。しかしこの時は、呑んだ後えらい大変なことになった。


 どうも歩くとき水分が不足していたのだろう、熱中症のような具合らしかったのに、呑んでしまった。量はそれほどでもないが、帰りの電車の中で、いごごち悪そうにしていたが、乗換駅で立ち上がるのが大儀そうだし、はあはあいって呼吸も苦しいのだろう。


 立ち上がれない、歩けない。座席がないと立っていられないので、床にへたり込んでしまい、他の上客が「酔っ払い爺いが嫌だねえ! あのざまだ」と厳しい視線をがビシバシ飛ばすのも解っているが、どうにもならない。


 で、次の忘年会は「古文書の会」。前回のようになったらどうしよう、と大いに不安があったが、呑み始めてみたらそんな不安もケロッと忘れた。もうあの苦しさは頭の片隅にも存在していない。それでたくさん飲んだ。


 そこでおとなしく帰ればいいのに、調子こいて2次会だとなった。全く呆れる、露ほども反省の景色がない。2次会の居酒屋で、もうほとんど飲めないのに、いよいよ図に乗って周りのお客と、話したり笑ったりして迷惑をかけた。



 無事に帰宅したが、それで翌日目が覚めて、深い自己嫌悪に落ち込んでしまった。
 自己嫌悪になるんだったら、どうして夕べの内にならないのか!
 その方がよっぽど人間としてまともなのに。

きゃっかん

うひゃあ~、随分更新を怠けたものだ!



 紅葉の季節もほぼ終わったらしく、いよいよ冬になってきた。
 振り返ってみれば、今年はいつでも温かかったような気がする。寒いよりはどちらかと言えば、温かい方を歓迎するが、真夏の、クソが付く暑さは、これはこれで嫌ではある。暑からず寒からずちょうどいい、という季節はほんとに短いのかもしれない。


 毎日、ぼおう~~っと過ごしているので、月日の経過は鬼よりも早い。新年になったぞ~っと思ったら、毎日がずんずん、どこどこ過ぎていき、ふと気が付けばハヤ年末になってしまった。あとがなくなってきた。困ったもんである。


 時の流れは奔流の如くにして、洗いざらい、一切合切を呑み込んで、どこか遠くの方へ行ってしまった。あれよ! と思う間にすべてのモノやコトが濁流のかなたに押しやられ、霞んで見えなくなって、呆然と立ち尽くすのみ。




 しかし・・・と思う。これを考えてみたところで、どうにもなるものではない。ただ我が主観がそのように感じるだけで、たぶん時間というものは、この宇宙で早くなったり遅くなったりはしないのだろう。この主観というものが、どうもイカンのじゃないかと思う。


 主観がいろいろ作動することで、怒ったり笑ったり悩んだり、しなければならない。大変にめんどくさい。だから、ここから離れればいいのだと思う。離れて、内側からではなく、外側からちょうど俯瞰するように眺めてみればいいのではないか。





 家の隙間に山茶花の木があって、今頃になって花が咲き始めた。手入れがよくないのでびっしりは咲かないが、この頃この花にメジロが遊びに来るのに気付いた。枝の中に潜り込んで飛び回り、枝を揺らすが姿を現すことは、まあない。


 いつも2羽、揃って飛来する。どこから来るのかわからないが、ふだんは姿を見ない。枝の茂みに入ってちょんちょんと動き回り、眺めているとどうやら花の花粉をついばんでいるのではないかと思われる。鳥が花粉など食うかなあ? 


 そのうち2羽とも、いつの間にか姿を消している。満腹になったのか、うちの花は旨くないのか、一度聞いてみたいが答えてくれないだろうなあ。姿を消して、そのうちまた来訪しているようだが、同じ個体なのだろうか、別個体の2羽だろうか? 



 というように、出来るだけ客観的に書いてみようとした。
 「外側からちょうど俯瞰するように眺めて」
 などと言ってみてもそれはなかなか難しい。


 それにもしかすると、主観を去ってしまえば、ひょっとして
 自分の脳の中に「世界」を構築することが出来ない、かもしれない。
 主観も客観もどちらも欠かすことが出来ないってわけか。なるほどな!